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がんば

『トウキョウソナタ』感想

 こういった作品は見てから少し経ってじんわりと良さが出てくるものなのかもしれないが、自分の場合は見てから少し経つと忘れてしまうので、すぐに感想を書く。今後見方が変わりそうな作品でした。こういうのは見るのがつらい。まあ例によってネタバレ上等で。

 

  日常を切り取りつつも、とある家族がどうなっていくかを追った作品で、父はリストラ&ひき逃げにあい、母は強盗にあい、長男は出兵、次男はピアノ教室に通っていたが父に反対され階段から突き落とされた上に無賃乗車で拘留。不幸度が高い!

 しかしこれはそういう不幸度的なつらさよりも、もっと違ったつらさを味わえる、いわば一口で二度つらい作品。

 これはラジオで平田オリザが言ってたことを引用するだけど、父の辿るストーリーはフルモンティ的な、フラガール的なもので、つまり「自分が今まで格下だと思っていた立場に立つ」ことを余儀なくされるものだ。サラリーマンでまあまあいい役職だった父はリストラされて、ハロワに行ったらゴミみたいな仕事ばっかり紹介されイラついていたら「お前現実みろよば~か」と煽られ、まあここで相当つらいのだけど、リストラを家族に隠しちゃうシーンもまたつらい。つまりプライドがあるから前に進めない、どん底まで落ちた自分を受け入れられない。

 こういうのを見るのは自分はつらいので、この時点で『トウキョウソナタ』を見るのはやめようかと思った。何故嫌かというと、自分も相当どん底にいる、あるいは将来どん底まで落ちかねない人間なので、そういう自分を受け入れなければいけなくなる気がするからだ。いや、受け入れて、その先に進まなければいけないことを思い知らされるからかもしれない。何に対しても気力や意欲が湧かない自分が、日々生活すること以上に、前へ進むことをしなければいけない。面倒だから、そういうことは自覚したくなかった。事情は違えど『トウキョウソナタ』の父も同じで、これからはこうして今まで自分が格下に見てきた職業で生きていかねばならない……今までで得た地位をゼロにして生きていかねばいけない、前へ進まねばならない、そういうことを自覚しなければいけない状況になる。

 さらに父が面倒なのが、父であるということ。子供には何かと説教することができる。その度に「隠し事をする奴は卑怯な奴だ……」と言い放つのだけど、全部父の状況に当てはまるその説教を、観客は見ていて「ああ……あああ……」とハラハラするはず。しかも母は父がリストラされたことを知っているし。多分ジェットコースターよりハラハラドキドキするよ。しかもこの黒沢清監督、いつもはホラー映画を撮っている。あ~そういうことね、上手いわけだよ煽り方が。スキップしながら見ることでリストカットから逃れました。

 けれども自分は、この先なんとかなるのだろうな、辛くてもそれを受け入れていくんだろうな、ということが判っていた。それは「大抵こういう映画ってそういう話だよね」って舐めた感じで観ているのじゃなくて、冒頭に入っているシーンがそう思わせてくれた。

 曲でも、小説でもなんでも、イントロや書き出しというのは大事で、それはもちろん映画でもそうだ。とくにDVDで映画を簡単に観れてしまう時代に、まず一番最初から目を奪うには、衝撃的なシーンだったり意味ありげなシーンが必要になる。『トウキョウソナタ』のオープニングはこうだ。

 部屋の中に風が入り込んでいる。やがて激しい雨が降りはじめ、開いた戸から雨が降り込んでくる。母はそれに気付いて、慌てて戸を閉めて、濡れた床を拭く。……しかし、母はふと思い立って、ゆっくりと閉めた戸を開ける。雨が降り込む、風も吹きつける、激しい音が聞こえる。床も濡れている。しかし母は、外を眺めている……。

 一見日常的だが、このシーンが冒頭に差し込まれることで、このシーンが「象徴」としてあることが判る。

 雨が降っていても、戸を開けて外に出て行かねばならない。そういう気持ちにならなくては生きていけない。そういう父の心情の変化の象徴として、このシーンはあったのだと思う。

 あとすげーなと思ったのは、母の母性、いわゆるバブみ。かなりの勢いでバブらせてくる。とんだバブらせ女だ。流石小泉今日子、負けてらんねえよ俺もよ! と見ていたら、とあるシーンでやられた。

 母は強盗にあい、車を運転させられる。なんだかんだで車を抜け出して、ショッピングモールの中に入るのだけど、そこで失業後清掃夫のバイトをしている父に出会う。父は母の顔を見て、恥ずかしさ等で逃げ出してしまう。母はここで助けを求めようとしたのだろうが、逃げ出してしまった父にブチギレて、強盗の元へ戻ってしまう。この際に母は髪型を変える。判りやすい心境の変化をここで表している。その後、強盗と母は海へ。案の定母は強盗にレイプをされかけるわけだが、強盗は思いとどまり、

「俺は間違いの上に間違いを上塗りしようとした、ゴミ人間だ」

 みたいなことを言ってヘッドバンギング。そこですかさずバブらせ女こと小泉今日子が待ってましたとばかりに、

「自分はひとりしかいません、信じられるのはそれだけじゃないですか」

 このセリフでおそらく全世界の人間の八割はオギャる。

 父もどん底に落ちた。長男も出兵した、次男もピアノ教室を辞めさせられて家出した。けれども彼らには母がいた。家に帰れば「おかえり」と言ってくれる母がいた。しかし母には「おかえり」と言ってくれる相手がいなかった。それでも平気だったのはこれまで生活に余裕があったからだ。しかし今となっては余裕なんてない。どん底に落ちていくのを待つだけだ。ちなみにこの時、ひそかに父はひき逃げにあっている。そんなどん底の小泉今日子は、全て受け入れ始めつつ、前へ進むしかないのだということを理解していたのだ。

 このあと、母は海を眺めていると低い夜空に星のようなものを見つける。強盗にその星を見せようとするが、強盗は起きない。しばらくしてその星を見つけようとすると、夜空には何も見当たらない。真っ暗な中、街の光に照らされた白い波だけが動いている。そして母は泣く。かすかな希望を見つけたと思ったらすぐに見えなくなってしまう、その瞬間をとらえたシーンだ。

 なんだかんだで母と次男は家に帰り、父も清掃夫の格好で血まみれになりながら帰ってくる(ちなみに血まみれなのはノーツッコみだった)。

 そして次男はそんな仕事着の父を見てひとこと。

「お父さん、変な格好」

 けれども父親はある日のようにぶちぎれたりしない。そのあと三人で食卓を囲む。そのことで「ああ父親は自分を受け入れたのだ」と判るわけだ。そういう演出なので別にいいのだけど、個人的にはそこでどうリアクションするかが見たかったので、ちょっと拍子抜けしてしまった。

 ドラマティックになるのって、何をどう発言するかではなくて、その発言に対してどう対応するか、その応酬が大事になるのだとおもうので、そう言った意味ではこの映画はストーリーの起伏はあるが淡白なところがあるので、ひとによっては退屈してしまうかもしれない。けれどそんなところも好き、と思えるひとは多いと思った。俺もこの映画がこんなにつらい話じゃなければ好きだったかもしれない。黒沢清のホラー観てみたくなったし。

 まあ、最後もよかった。ここの冒頭と同じく象徴的だ。次男の音楽大学付属中学への入試試験の日。次男は見事にピアノを弾ききって、言葉にはなくても審査員全員から賛美の目線を送られる。父も母も、次男のことを見ていた。母はただ見惚れているだけだったが、父は目に涙を浮かべていた。

 そしてこのカット。状況的に違和感は出るが、しかしそれだからこそ「象徴」として機能している。

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 審査員やほかの親御からの賛美の目線を受けながら、会場から出て行く家族。

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 家族がその会場にいなくなっても、みんな、視線を送り続ける。温かい目だ。このシーンがどんな意味を持っていて、なにを「象徴」しているか、語るのは野暮になるくらいいいシーンだが、とりあえず言葉にしておこうと思う。いつかどう感じたか忘れたり、今後感じ方が変わるかもしれないからね。

 この家族は、ひとりひとりが人間としてまっとうして、それだから家族として上手く機能する。どん底に落ちてもやりなおせる。シンプルだけど難しいその壁を乗り切った家族に対する、尊敬のまなざしなんだろうと思う。このラストのシーンが、全てのひとにとって尊敬すべきシーンでありますようにと願ってしまう。

 

 まあ、もう自発的には見ないとおもいますけどね。ブルド~~~~~ザ~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!

 

 

ブウオオオォン!!

 

ブウオオオオオオン!!

 

ゴオオオオオオオオオオォォォ!!!!

 

 

追記(直後)

 なんとなくメモを取っていたので晒す。

 

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