職ありオタク

がんば

『サムサッカー』感想

 絶賛します。ネタバレもします。この映画は自分が人生において「見てよかった」と素直に言える映画だし、どうしても主人公のジャスティンに感情移入してしまう映画なので、毎回じんわり泣く。

 

  さて『サムサッカー』は大まかな流れは「ジャスティンがADHDになる過程、なったその後」の話であるが、しかし「ADHD」についてだけの話ではない。薬なしに普通に暮らすひとに対しても言える話であり、また根源的なところを抽出すれば「ひとと関わるということ」についての話だ。子育て、教育、恋人、夫婦生活、そういった「ひとと関わるということ」で、ひとびとがどれだけ綱渡りなのか、とか。

 物語終盤で「ひとは何かに依存しなければ生きていけないのかも」みたいな台詞をジャスティンの母親が言っていたと思うが、それも大きなテーマ。テーマの繋がりとしては「依存」→「ひとと関わる」という因果を辿る。たとえばジャスティンがADHDになった大きな要因は父親だ。父親は負けず嫌いで息子のなよなよしたところを直したいと思っている。そして指をしゃぶる癖も。つまりジャスティンの根源的な部分……直すなんてとんでもない、根源的な変えることのできない根っこの部分……を、父親は好きじゃなく、変えてしまいたい。そんな父親から受ける言葉、態度によりジャスティンはADHDになっていく。

 ここの流れは判りやすくまた綺麗だ。ADHDになってしまう流れ、そしてこころの仕組みの見抜き方、表し方は絶妙だ。『クワイエットルームへようこそ』の感想を書いたときも言ったが、物事が起こる根拠がしっかりしていると観客は安心して見られる。そして物語に魅入っていくことができる。納得が出来る。そこは必要条件であり、また高度な技術だ。なによりこういった精神の動きに関することは、特に。映画だけを見てきた人間には出来ないだろう(盛大なオタク批判)。

 母親もまた良い。ジャスティンは両親からまっとうな愛を受けたかった。きちんとした「家族愛」を受けたかった。しかし父親は年老いる自分を自覚したくなくて子供に自分たちを「パパ・ママ」ではなく「マイク・オードリー」と呼ばせる。つまりこの時点で「親子」の関係が薄れている。母親はジャスティンと2人で買い物に出かけ、自分のドレス姿を見せ「どう思う?」などと恋人のような扱いをしている。またイケメンの俳優に入れあげる姿も、恥じることなく見せる。母親オードリーは父親マイクのことを批判した態度を見せつつも、自分も同じようなことしている。ジャスティンは結局、母からも、父からも、主観的には「親子」の関係が薄れてしまっている。

 最後にはオードリーもきちんと「母親」としてジャスティンを見ていて、マイクも「父親」としてジャスティンとの接し方を模索していたことを知るのだけど。あのシーンもいい。オードリーが目に涙をためながら「想像しちゃうわ」と呟くところなんて、自分の母親が言っていた気がしてしまう。きちんと「母親」の顔だし、きちんと「母親」の言うセリフなのだ。

 教師との関係も、切なく悲しい。ADHDと発覚しつつも言葉に対する感性が光るジャスティンを討論クラブのスタメンに引き入れた教師は、それで満足だろうが、ジャスティンは討論で勝っていくことで、討論をすることにのめり込んでいく。また理屈っぽくなっていくし、嘘をついてしまうようにもなる。言葉の力をふるうことにのめり込んでしまう。何故のめり込むか? ジャスティンを受け入れてくれるのは「討論の場」だけだからだ。教師はそれを知らない。しかし徐々にジャスティンがそうしておかしくなっていくことだけは判る。最後に、ジャスティンはADHDの薬を飲まず、討論で負ける。そして教師は、手に余るジャスティンを、用済みとばかりに捨ててしまう。ジャスティンは教師から利用され、おかしくされて捨てられてしまう。この教師の振る舞いは一つのキーワードのように思う。その後の、元カノとヨリをもどす話と、歯科医の話にもつながってくるのだ。

 その後ジャスティンは元カノとヨリを戻し、目隠しをして元カノとキスしたり、目隠しをしてフェラされたりする。最初はそれで満足していたジャスティンだったが、だんだん元カノときちんとセックスしたくなってくる。「僕これ嫌だ」と目隠しを外したくても「ルールだから」とはねのけられる。そこで、ジャスティンが元カノに「好きだ」と言うと「なんでマジになってるの」と発言。つまり元カノはジャスティンを実験台にして、将来出会うであろう素敵な男性に尽くせるように練習をしていたわけだ。それでジャスティンは打ちのめされる。「ひどすぎる」と打ちのめされる。ジャスティンはこれで教師からの、恋人からの、両親からの関係が上手くいかないことになる。つまり、よりどころがない。依存場所がない。

 それでジャスティンは父親に相談しようとする。打ちのめされた時はどうすればいいのか? 父親は「耐えろ」との返答。きっとこれが父親の本当の答えなのだろうが、ジャスティンは「対処法を知りたいのに耐えろとはどういうことだ」と怒る。そんなジャスティンにマイクも怒ってしまう。つまり2人は根本から違う人間なのだった。親子というシステムがいかに脆弱かが判る。

 また、オードリーが入れあげていたイケメン俳優のために精神病棟の担当になり、そのイケメン俳優と出会ったことに気づいてしまう。ジャスティンは母親の母親ではない面をしっかりと確認してしまう。そのことから事実を確認しようとオードリーのつとめる病院に向かったジャスティンだが、そこでイケメン俳優本人から、恋人の関係はないことを知らされる。ここからジャスティンは、母親の愛をほのかに感じることになる。

 そしてここからが泣ける。ジャスティンは将来の夢を見つけ直し、NYへ夢を叶えに行き、同時に自分を受け入れてくれる女の子にも出会う。つまり「自分を受け入れる」という難しいことが出来るようになってくることを示唆して、映画は終わる。

 「自分を受け入れる」ことの難しさったらない。いつだって自分は自分に裏切られるし、自分に打ちのめされる。

 ADHDはそんな自分たちの渡る綱から足を踏み外してしまったひとだ。けどそれはおかしいことじゃない。綱を渡る自分の背中を思い切り押してくるような出来事は日常にありふれている。ADHDは頭のおかしいひとがなる病気じゃない。普通に暮らす人間がなるべくしてなるものだ。そして心に強い弱いなんてない。心に、ある程度の刺激を与えると、歪んでしまうのだ。真っ裸で一晩中を過ごしたら風邪をひくのと何ら変わらない。普通に暮らしている人間が「ADHDになっておかしくない状況」というものがあるのだ。

 そしてそんなひとたち、またわたしたちが「自分を受け入れる」までは辛く険しい。しかし「自分を受け入れる」ことで「依存」はある程度解消され、そこから発生していた「ひとと関わること」についての問題は解消されていく。ひとりで生きるべきだという話じゃない。迷惑をかけあうことが苦痛じゃない関係が生まれていくということだ。『サムサッカー』そのことを、ラストのシーンを通じて理解させてくれる。

 また、この話には欠かせない人物がいる。歯科医のペリーだ。彼も「依存」のひとだった。しかし彼もジャスティンと同じく「自分を受け入れる」ことが出来る。

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 彼はそう言い切る。彼はジャスティンを、かつても教師たちのように見捨てつつ、しかしこうして「自分を受け入れ」戻ってきた。彼の言葉はジャスティンを救い、ラストへとつなぐ。観客はジャスティンの経過と同時にペリーの経過を断片的だが見ることができる。それ故に、この言葉が生きてくるのだ。

 

 さて、好きすぎてとりとめない文章になったが、また気が向いたら追記する。

 つぎもまた別の映画について書こう。同じマイク・ミルズの『人生はビギナーズ』書こうかな。

 

追記(直後)

 わすれてたけど、この映画は構図がいい。オードリーのドレスを選ぶシーンの鏡の使い方などは、結構やるね、と思う。またレンズにちょっと青緑っぽいフィルターをかけているのか、色がオシャレになる。日光、そして日光に照らされたものが、澄んだ空気、張り詰めた空気、それでいて冷たい雰囲気を作り上げている。その雰囲気は、ジャスティンの張り詰めて病的な神経を、陰ながら支えている。演技や役者の顔も相まって、非常によい画を作っていたと思う。

追記(9.10 11:16)

 誤字の修正と若干の加筆。