結果無職

がんば

アニミズムと枕草子、A.C.ジョビン

 自然界、あるいは世の中には神々が遍在しているという考え方信仰をアニミズムと呼ぶ。たとえば日本では八百万の神などと言ったりするがまさにそれはアニミズムな考え方だ。動き鳴くことのない草花あるいは石ころにまで神々霊魂が存在するかのように私たちは時々思ったり考えたりする。子供に親が、米粒の中には神様がいるので食べ残してはいけない、と教える。

 A.C.ジョビンというおじさんがいる。まあまあ有名なおじさんで、イパネマの娘などの有名な曲を歌ったひとだ。そのおじさんが「三月の水」という曲を作った。すばらしいボサノバの曲なのだが、アニミズム枕草子を念頭において歌詞に注目してみる。

 

 

枝 石ころ 行き止まり 切り株の腰掛け 少しだけ独りぼっち

 

 

 と始まり、こんな調子で、

 

 鷹 うずら 春の約束 泉の源

 

 など、単語をつらつらと歌っていく。これはまさに自然界にある「自分を含めた」全てを歌う歌だ。

 さて先にも出したが枕草子。この中には「ものづくしの段」と言って、清少納言が思い浮かぶ「怖いもの」だとか「面白い地名」だとか、とりあえず名前をあげていくだけの段がある。枕草子の醍醐味といえば、平安貴族の日常での会話、掛け合いだとか、清少納言のひととのかかわりだったりするのだが、この「ものづくしの段」というのも、その地名の名称だとか、ものの名前の扱い方により、現代よりもどこか厳重な……というよりも大切さのみえる……部分が見える。つまり、石ころはただの石ころとしてあるはずなのだが、まるでその石ころにも命があってそれを清少納言が認めているような書きぶりなのだ。

 この間、「三月の水」という曲を知って痛く感激をした。そして今日ふと、その名曲と個人的に好きな『枕草子』が偶然符合した、というだけの話なのだが。

 ここ最近、芝居の稽古が始まった。戯曲は自分で書いた。三月末の上演だ。

 戯曲は『枕草子』を下敷きにした物語なのだが、ふと上演の直前に会場でこの「三月の水」を流したらどうだろう、いい感じになるのじゃないか、と思い始めた。演出とはどうやるものなのだろうとずっと考えてきたのだが、ここ最近、演出にはいくつか種類があるのだと気付いた。例えば戯曲にあるテーマを目立たせるやり方、戯曲の裏にあるテーマをストーリーとして(戯曲本来のストーリーと一緒に)舞台に反映させるやり方。自分はこれといった勉強をしていないので何をしていいのか判らないが、とりあえず、枕草子を下敷きにしたのなら、アニミズムは取り入れなきゃならないだろうと思う。なので取り入れます。

 さて、アニミズムとは無生物に霊魂が存在するという考え方。ここにポストアニミズム……現代のアニミズムを提唱してみる。

 これはままある出来事で、もっと言えばポストアニミズム……現代のアニミズムなどとは違う名称がある出来事なのだと思うのだが、ある存在するひとに、誰かが勝手に物語性を付与するというものだ。あのひと実は疲れ切っているのにあの仕事を続けているらしいよ。あのひと実は奥さんにはとても冷たいらしいよ。といった、面白おかしいあるいは名誉を傷つけるあるいは単なる思い込みを、ひとが勝手に与えるのだ。これはある意味アニミズムと言えよう。

 飽きたのでとりあえずここまで。以降の文はいつかまとまったら書くメモのために。

 

 クラスメイトのI村は俺の事を舐めている。俺の事を見くびっているのだ。俺は何となくぼんやりと学科で過ごしていて、自分ではこれといったことをしていないように見える存在だ。周りは面白くて仕事のできるやつらばかりで、そのひとたちと話してケラケラしているだけの存在だ。つまり虎の威を借る狐状態にある(見える)わけだが、授業外でちょっと活動をしている(芝居の戯曲書いたり)わけで、何にもしていないわけではないのだ。むしろI村なんかより仕事はしているといえよう。そして真面目だ。それを表に出すことはしないのだが(それもI村に舐められる原因だが)しかし出したところでI村には鼻持ちならねえ奴だと思われるだろう。

 けれどいい加減舐められるのも止めてほしいものだと思って、I村に直接「お前って俺の事舐めてるよね。どれだけ舐めてる?」と聞いたら、「あ、え、え、なんで?舐めてないけど?」と返された。いい加減にしてほしい。なめているのは判っているのだ。俺の事を見下しているのはもう裏がとれているのである。ムカムカしたのでもういいと思って放っておいた。